作品情報
タイトル:『教皇選挙』
原題:CONCLAVE
公開年:2024年年
監督: エドワード・ベルガ
主な出演者:レイフ・ファインズ、スタンリー・トゥッチ、ジョン・リスゴー、カルロス・ディエス、イザベラ・ロッセリーニ
上映時間 120分
あらすじ
ローマ教皇が亡くなり、バチカンでは次の教皇を選ぶ教皇選挙〈コンクラーベ〉が開かれることになる。
選挙を取り仕切るのは、信仰に迷いを抱えるローレンス枢機卿。
世界各国から100人を超える枢機卿が集まり、システィーナ礼拝堂で極秘の投票が始まる。ところが票は割れ、保守派と改革派の対立、候補者たちの思惑や野心、さらに次々と明るみに出るスキャンダルによって、選挙は混迷を深めていく。
外部との連絡を絶たれた閉ざされた空間で、聖職者たちは新たな教皇にふさわしい人物を見極めようとする。
そんななか、ローレンスは亡き教皇が残した秘密に近づき、選挙は思わぬ方向へ動き始める。信仰と権力、人間の弱さが交錯するなか、最後に選ばれるのは誰なのか。
感想
※以下、映画『教皇選挙』の結末を含むネタバレがあります。
映画好きの夫から「おもしろいから観たほうがいい。ほら『観ずには死ねない』ってあるじゃん」と勧められたので、観ました。「教皇選挙」。
観ずには死ねない…というほどではありませんでしたが、十分面白く、私も誰かから「最近おもしろい映画あった?」と聞かれたら自信を持って勧めます。
教皇選挙そのものがおもしろい
教皇選挙の間は、枢機卿たち全員がシスティーナ礼拝堂とバチカン内の宿泊施設にカンヅメにされ、外部とは一切連絡がとれなくなります。そのため、枢機卿密度(?)がうんと濃くなって、その中で起きるさまざまな出来事の一つひとつに、よりいっそう「どうなる? どうなる?」という緊迫感をもたらします。
100人を超える枢機卿たちが、そろって緋色の衣装をまとっているのもおもしろい。同じ格好をしているからこそ、肌の色や顔立ちなど、一人ひとりの違いがかえって目につきました。
さて、この選挙を仕切る役割を任された主人公ローレンス。
悩みながら歩く後ろ姿、がっくりと腰をおろして考えこむ姿が多くて、印象的でした。性にまつわるスキャンダル、買収、自爆テロによる攻撃…次から次へと問題が起こるので、ストレスMAXだったに違いありません。つい気の毒だなあ…などと思いながら観ていました(笑)。
ラストの秘密に驚く
ここでいきなりネタバレしますが、ベニテスが選ばれたので驚きました。ローレンスかベリーニが選ばれるだろうと思ったので。
さらに、教皇として選ばれたあとにベニテスの肉体の秘密(インターセックスであること)を聞いてどんでん返し的にびっくり! 「ポリコレに配慮なのか??」とも思ったのですが、まさかそんなはずもないでしょう。
私のように、日本人でクリスチャンではない人からすると「…ああ? そうなんだあ。ウンウン」くらいのもの(◀そうなのか?!)ですが、ガチのクリスチャン、しかも枢機卿ということを考えると、その事実に真正面から向き合うことになったベニテスやローレンス、亡くなった教皇の苦悩の深さが思いやられます。
「確信」を恐れるという信仰
映画のなかで、ローレンスが枢機卿たちの前で説教する場面があります。ローレンスは言います。
「何より恐れるようになった罪が一つあります。『確信』です」と。
これは、ガチ・クリスチャン勢の世界でも、そうなのか~~と意外な思いがしました。もちろん、これがカトリック教会一般の「信仰とは疑うことだ」という教えなのではなく、この映画がローレンスという人物を通して提示した信仰観なのだと思います。
なぜ意外な思いがしたかというと、私が学んでいるテーラワーダ仏教では「信じなさい」とは言われないんですね。「自分でよく観て理解しなさい」と言う教えなんです。では信じるという側面がないかというとやはりあります。仏道を信じる心がないと、とりあえず修行に入れませんから(笑)。でもどんなに「信じる!」「この道は正しいと確信した!」といっても、悟りを得ていない者は疑いが生じたり、揺らいだり、修行から離れたりする可能性がある、と。仏・法・僧への「信」が揺るがないものになるのは、預流果(よるか)という悟りの第一段階に入ってからだとされています。これは…と説明すると話が逸れるし大変なのでやめておきます(笑)。
…そういうわけで、私にとっては疑念を抱えながら歩く、ということには馴染みがあります。でも、この映画では、枢機卿たちの前でこうした信仰観を語らせているのです。信仰する人の生き方として、覚悟が感じられてちょっと感動しました。
人間は「考え」だけでは生きていない
枢機卿たちはずっと、「誰を教皇にするか」を決めるためにすったもんだしていました。
「保守か革新か」
「野心家か無欲か」
「善人か悪人か」
「教皇にふさわしいか、ふさわしくないか」
さらには「男/女」という、一見もっとも分かりやすそうな二分法まで。
…これ、ぜんぶ「考え」なんですよね。「概念」といいますか。
ところが最後に選ばれたベニテスは、インターセックスという自らの身体によって、身体の性を「男/女」と単純に分ける二分法そのものをぶっ飛ばします。ぶっ飛ばすと言ってまずければ(笑)、「人間というのは、精神や概念だけでは生きておらず、ガチ・リアルな身体というものがあるのだ~」ということを突きつけてきたのです。ベニテス自身は、それを『神から与えられたもの』として受け入れました。
ここでまた、テーラワーダ仏教の話を蒸し返します(笑)。こちらの身体観はかなり身も蓋もない。釈尊は身体を不浄物の詰まったものとして観察するように説いています。私ふうの表現だと「人間は糞袋を抱えて生きている」という世界観です。
…なので私は、ベニテスの身体の秘密を、多様性という言葉で丸めるのはもったいないと思いました。人間は精神だけの存在ではなく、身体を持って生きています。しかも、その身体を維持するだけで食べ、眠り、排泄し、病み、老い、傷つき、かなりのエネルギーを使います。その身体は思い通りにならず、ときに自分の理解や社会の分類からはみ出すことがあっても、その身体を抱えて生きるしかありません。
教皇に選ばれたベニテスは、自分の「違い」によって、より人の役に立てるのではないか、そしてローレンスが説教で語った「確信」の狭間で生きる感覚が自分には分かる、という趣旨のことを言います。
ベニテスが教皇に選ばれるという結末は、とても良かったと思いました。
「正しい者」が選ばれたというより、簡単には分類できない自分自身を抱えながら、それでも信仰の道を歩いている人が選ばれた。そのことが、この映画の「確信を恐れる」という言葉への、一つの答えになっているように思えたからです。
概念で人を分類し続けた教皇選挙の最後に、勝ったのは生身の人間だった…私には、そんなふうにも見えました。
(記:2026年9月15日)

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