
アルコール中毒者のぴなこです。
私は相手と場面を選んで、できるかぎり、自分がアルコール依存症であることを相手に伝えるようにしています。というのは、日本中で多くの人が苦しんでいるこの病気が、どのようなものであるのかがほとんど伝わっておらず、結果として多くの悲劇を引き起こしているとつねづね思っているからです。
「今は◯◯年、飲んでいないんですけどね~」と伝えると、よく、このように聞かれます。
「もう、飲みたくならないんですか?」
答えとしては「もう、飲みたいとは思わなくなりました。ただ個人差があって、かなり長く飲んでいなくても飲みたいと思う人はいるようです」としています。
アルコールから離れたとき、最初のうちは、なんとか「酒から離れよう」「酒のことは考えないようにしよう」「酒のあるところにはいかないようにしよう」とずっと考えていました。けれども、治療を受け、自助グループに通い、飲まない生活が軌道に乗ってくると、だんだんと、酒に対する強迫的な思いは減っていきました。それでも、ソーバーになって(断酒して)数年間は、酒がある場所には極力近づかないようにしていたかと思います。飲まなくなって4年が過ぎたとき、初めて酒の席にでましたが、まったく飲みたいとは思わず、ほっとしたことを覚えています。
飲まない生活を続ける条件さえ守っていれば、いつかは飲みたいとは思わなくなるもののようです。少し余裕がでてくると「飲んだら美味しいだろうなあ」などと思えるようになりました。
ところで、ここがなかなかアル中以外の方には伝わりにくいところなのですが「飲んだらうまいだろうなあ」というのと、病気の最中の、「飲みたい、飲みたい、飲まねば!」という強烈な、病的飲酒欲求とはまったく異なります。むしろ正反対といいますか。
また、飲酒欲求というのは個人差があって、かなり長い間悩まされる人と、そうでもない人がいます。飲酒欲求という病的な欲望から遠ざからないと「飲んだら美味いだろうなあ」などと、どこか他人事のように(笑)、思ったりすることはできません。
そういうわけで、飲みたいという思いはなくなりましたが、今でも「未練のある酒」というものはあります。
たとえば、こういう酒です。
アジアのどこかの国に旅をするとします。空港からローカルバスに乗って、安宿を見つけて水シャワーを浴びて着替え、洗濯を済ませる。そろそろ夕暮れ。で、ふらっと散歩にでて地元の人で賑わうオープンテラスの食堂やら屋台やらに腰掛けて飲むビールの最初の1杯! その国のビールがいい。メニューを見て分からなかったら、隣のおっさんの飲んでいるやつを指さして頼む。
…てな、酒。
会社で仕事が終わり、だれからともなく「ちょっと飲む?」なんていう話になり、1000円札を集める。いちばん若い人がそれを持って買い出しに出かける間、残った人たちは、煙草を吸いはじめたり、机に裏紙を敷いたりして準備する。缶ビールと乾き物が到着したらとくに乾杯の音頭もとらずに、それぞれ飲み始める。
…てな、酒。
未練があるのは、酒そのものではなくて、そのシチュエーション、時間や空気なんでしょうね。
しかし、まあ、今、アジアの国を旅することができたとしたらジャスミン茶でいいですし、安宿ではなくもう少し快適なホテルに泊まりたい(笑)。それに1000円札を集める社内の飲み会ももはや昭和・平成(の初期?)の文化であって、今、そんなことをする会社はないでしょう(残念?!)。あと、建物内は禁煙ですよね…今。
未練のある酒に思いを馳せることができる今は、やはりありがたいと思います。
今、私が暮らす千葉の田舎は、緑濃く、風薫る5月。オープンテラスでランチに地ビールなんか飲んだらうまいだろうなあ…などとやはり未練がましく思ったりする今日このごろです。
(記:2026年5月14日)
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