
青春を飲み潰す 第2章(続き)
新人研修の間、自分としても「ちょっとまずいな」と心の中に暗雲が広がりはじめました。
もちろん、それ以前からアルコールの問題は、私の心の奥底で常駐しており「このままじゃだめだ…」と思っていました。
アルコールの問題だけでなく、研修で仕事のことについて学びはじめると、やはり難しいですし、興味が持てなかったんです。興味がもてないというのは、かなり致命的なこととはいえ、今であれば、たとえあまり興味が持てず、難しい…と思っても、なんとかついていこうと努力できると思うんですけれども、毎晩かなりの量を飲んでいましたから、翌日にアルコールが残ったまま出社するので、勉強にも仕事にもついていけるわけがありません。
大学時代というのは、ごまかしもききました。アルコールが切れている間にレポートを書いたり、テストを受けたりできたのですが、社会に出れば毎日がテスト…という中で「ついていけない」という、それまでに感じたことのない恐怖感や挫折感が強くなっていきました。その後、3年半ほどでこの会社を辞めることになるんですけど、最後までその感覚はつきまといました。退職するときは、上司には正直に「ついていくのが難しい」と伝えたところ「でも平均点ぐらいにはなんとかやってるんじゃない?」と言っていただきました。今から思えば、痛恨の極みというか。たしかに「優等生コースからは外れた」かもしれませんが、それなりにやっていくことはできたかもしれませんし、もっと周りの方に相談をすべきでした。あるいは上司が思いやりのある言い方をしてくださっただけかもしれませんが…。アルコール依存症を患っていると、つねに判断を誤ります。
…そんなふうで、役に立たないまま辞めてしまいました。チャンスもいただき、良くしてもらったのに残念です。
もう少し当時のことを話しますと…
毎晩、大量にお酒を飲んで翌日、仕事に行くのが大変辛かったです。当たり前ですが(笑)。でも、飲まないという選択ができないんですね。集中力も気力も削がれていました。周りもまだ新人だからということで、大目に見てくれた部分もかなりあったと思います。そんななかで私は、危機感があっても、現実を直視できないままでいました。
もう完全にアルコール依存症になっていましたから、職場にたどり着いて席に座った時点で離脱症状が悪化していました。イライラしますが、なんとかそれを隠そうとするのも一苦労。プロジェクトに入ってからも、ちっとも仕事を進めることができず、残業が多くなりました。残業しても全然仕事がはかどらないので、周りや上司にも、すごく迷惑をかけました。心配してくれた同僚が声をかけてくれたり、手伝おうかと提案してくれたりしたのに、それを受け入れず、ときには乱暴に振り払い…本当に申し訳なかったと思います。
しかし、私としてもめちゃくちゃきつかったです。自分なりに「このままではいけない」と思い、酒の量を減らして健康的な生活をしようと努力しました。AAでいうところの「つらすぎるくらいつらい努力を、たっぷりと、長い間繰り返した」というところでしょうか。
当時はソフトウェア開発業界というのは儲かってもいたし、そこで働く人材も若かったので、福利厚生は手厚いところが多かったように思います。福利厚生の一環として会社が契約してくれたフィットネスジムに安い費用で通えたので、行きはじめたら結構ハマってしまいました。仕事もちゃんとできないのに(笑)、平日も週末も毎日のようにエアロビクスのクラスに出たり、泳いだりとかしていました。私としては、フィットネスに励めばお酒を飲む量が減らせるんじゃないかと、大真面目に考えていたわけです。こういうのも、かなり変な考え方ですよね。普通の人はお酒が好きであっても、酒の量を減らすためにフィットネスに励もうとは考えません。この病気になると、あらゆることで妙な考え方をするようになるものです。
…とはいいながらも、熱心なジム通いによって確かにアルコールの量は多少減りました。体調が整ってくると、ジムでよく会う会社の先輩にランニングのレースに誘われるようになって、休日にはよくレースに出るようになりました。日常的にもジョギングをするようになり、登山も始めました。若いですからね、どこに行っても可愛がってもらえましたし楽しかったです。一時期は、今の仕事も自分には合わないと思うし「エアロビクスのインストラクターになろうかな」と思ったり。やっと若さがもたらす楽しさが味わえた日々でした。寮住まいなので、他の部屋には同僚がいて一緒に飲みにも行きました。学生時代よりもよほど「青春した」時期でした。まあ、それも長くは続かないのですが…。
こうして、最初の社会人生活はアルコールの問題をずっと抱えたまま、結局3年過ぎて、本格的にプロジェクトに参加して仕事をするようになってくると、本当にきつくなってきました。いつまでたっても仕事ができるようになってきたという実感がなく、成功体験が積み重なりません。当然評価もされません。賞与の時期には会社から「平均賞与は◯%」という数値が出ますが、自分の賞与の額を見てみると、平均以下です。当たり前ですけれども。私は生徒・学生時代は平均以下という結果をほぼ経験したことがなかったので「自分が平均以下の評価を受けた」ときには正直、驚きました(笑)。
そういうことがあったりして、もう辞めちゃおうかと思いましたが、プロジェクトマネージャーがなだめてくださり、思いとどまりました。とにかく精神状態が不安定で、カウンセリングに通うようになりましたが、あまり効果はありません。アルコールの悩みももちろん相談しています。久里浜式アルコール症スクリーニングテスト(多分)も受けました。ただ、テストの際、回答は自己申告です。例えば「酒が原因で、大切な人(家族や友人)との人間関係にひびが入ったことがある」…この項目に「ある」と回答すると一気に高得点になるのですが、アルコール依存症者は平気で「ない」を選んでしまうんですね。それで「やや高得点」くらいにとどまってしまって見過ごされる…それに私の場合、かろうじて社会人としての生活が成り立っていたから、アルコール依存症だと見破られませんでした。ちょっと残念だったとは思いますが、そこで医療につながって診断を受けたとしても受け入れたかどうかは、はなはだ疑問です。
次第に「もうダメだな」と思うようになり、結局、会社には「もう辞めます」と言ってしまいました。そのときは誰にも相談しませんでした。一応、円満退職という形にはなりましたが、カウンセラーの先生にも事後報告でした。退職とか転職とか、熟慮せずに衝動的に大きいことを決めてしまうというのもアルコール依存症の病気の表れですね。アルコールの影響で正しい判断ができず、全体的に考え方が歪み、振る舞いが自己チューになります。これはもう、言い訳をすると、自分に余裕がないんですね。とても苦しい。次の酒のことばかりを考えている…そういう中で、自分を客観的に見るとか、周りの人の気持ちを思いやるとか、義理とか感謝とか…人間として大切なもの、社会の中で他の人と一緒に生きていくうえで大事なものを無くしていく。この病気の残酷なところだと思います。
こうして会社を辞めることが確定した最初の週末、朝から飲んで月曜日に会社に行きませんでした。無断欠席ではなく、体調が悪いと連絡をして休んだんですけれども…これが最初の連続飲酒でした。ここから一気にアルコール依存症が進む速度が早くなっていきます。
ここの会社は人間関係が良く、私が会社を辞めた後もしばらく一緒に登山に行ったりとか、走ったりっていうことが、続きました。よく覚えていることがあります。退職後4、5年経った頃、一緒にレースに出ました。前の晩にみんなで飲んだとき、例によって私は深酒しました。翌日、帰りの電車の中である先輩が「あんな飲み方をして…。なにか悩みでもあるの?」と聞いてくれました。私の酒の飲み方が普通でないと思って声をかけてくれたのでしょう。まだ私も20代の女でしたからね、見苦しく酔っ払うのは、周りの人からは異常な事態だと思われて当然です。先輩にしても言いにくいことだったと思います。親切で面倒見のいい先輩をして、そこまで言わせてしまったことについては、もったいないというか、申し訳なかった。ああいう大事な人間関係を、自分の酒のために無くしていってしまったことが悔やまれます。当時、お世話になった方々が元気でいらっしゃるといいなと願っています。
…この会社は今や大会社になり、一部上場もしています。いつの日かAAのメッセージなり広報なりで、訪問できたらと思っています。私の大きな夢の一つです。でも考えてみれば、私がもう57歳ですから、先輩たちの多くは定年間近でしょう。早く実現させたいものです。
いったん、ここで区切りたいと思います。
