旅行記の日記編です。 アルバムはこちら
1999年5月1日(土)
<短い旅のための長すぎる道のり>
成田を出てからムンバイ空港へたどり着くまで15時間。長い道のりだった。なぜ、かくも長い道のりに感じられるのか。
わずか9日間しかインドにいられないからだ。バックパッカーをしていた頃がなつかしい。
<空港で夜明かし>
現地時間23:15である。入国審査、両替、リコンファームなどをすませ、最終目的地、コーチンに向かうべく「国内線」乗り場を探す。きょろきょろと見回してからやっと気づいた。
「ここじゃだめ。国内線の空港は別なんだ!」
世界的な常識として、国際線の空港と国内線の空港は別である。電車じゃないんだから。
国際空港を出て最初の一歩は、いつでも緊張する。国政的信用がかかっている空港内は、それなりに旅行者を保護する機能が働いているのだ。その外にひとりで飛び出す。
外はもわっと熱い。
待っても、国内線空港行きバスはやってこなかった。
結局、親子連れや若い人たちと白タクに相乗りすることにした。ひとり1ドルだという。どこぞのホテルの送迎バスが化けた白タクだった。
空港の敷地内には、布にくるまって寝ている人が大勢いる。その貧しさに衝撃を覚えた!などということはなく、むしろ、身ひとつで生活する人々の身軽さをおもった。住まいを持たない人も混ざっているのかもしれないが、空港内で働いている人も多いのだろう。日本ではとてもマネできない。
そういえば、空港でトイレに入った時、掃除のおばさん達が床に布をひいて眠っていた。なにもトイレで眠らなくてもよさそうなものだと一瞬思ったものの、よく考えてみれば職住近接である、清潔であり、しかも涼しい場所なのである。理にかなっている。
<国内線空港で夜明かし>
5時間ほど過ごす。少しの間、インド人の夫婦とおしゃべりした。ニューヨーク在住で、ハイダラバードに帰省する途中だという。私が日本から来たというと、
日本の首都は東京だよね? ああ、ごめん。日本のことは、あとはもう何も知らないなあ」
と、旦那さん。
日本には、インド独立運動の指導者、チャンドラ・ボースの墓があるのよ、と内心つぶやいた。
語学力の不足で歴史やら政治経済やらについては語れない。もっとも、日本語でも語れないが!
<さあ、機長さん、ブッ飛ばしてね!>
5:30、国内線に乗り込む。ここから1時間弱の道のりだ。
コーチンへと気がせくけれども、行きの機内でもほとんど眠っていないし、出発前日もうれしさのあまり眠れなかった。(このノリ、遠足前日の子どもだ)。さすがに少々まどろむ。 となりのインド紳士が着陸態勢になってから話しかけてきた。このスディ・シュノーイ氏は、ラジコットの金融会社で秘書の仕事をしているという。
ラジコットといえば、インド北東部のクジャラート州にある町だ。訪ねたことこそないが、蔵前仁一氏の著作で読んだことがある。マハトマ・ガンジーの生家以外はとくに観光名所もない小さな町らしい。そのため、日本人の旅行者はめずらしいということで、町の人々からたいへんに親切にされたとのこと。いつか行ってみたいものだ。
スディ・シュノーイ氏とは、お互いの会社のURLとメールアドレスを交換した。日本に帰ったら1度はメールを出そうと思った。インドに向けてメールを打ったことは一度もない。
<コーチンだ!>
コーチン空港からエルナクラムの市街地までは約7km。コーチン空港は客引きも現れず、のんびりしたものだった。拍子ぬけして、プリペイドタクシーのチケットを買う。空港の建物の前に机が一つ置いてあり、おじさんが座っている。日本の小学校で使っている机のようだ。それがチケット売場だ。のどかな感じで、何ひとつ危ないことなどないような気分になる。
例によって、ホテルの予約なぞしていないから、ガイドブックに紹介されていたホテルの名前をドライバーに告げてイケイケゴーゴーである。
<立派なホテルの開けられない窓>
“Seaload Hotel” は立派な造りをしている。掃除がゆきとどいた部屋にはソファにテーブル、書き物用の机もあり、引出しにはホテルの名前が入ったレターセットが入っている。エアコンはよく効くし、バスルームにはバスタブさえついている。
もう貧乏旅行ではないので、快適な宿に泊まるつもりでいた。どんなに節約しても、長く旅することはできない。6日後には帰るのだ。
ということで、700ルピー(約2100円)の部屋なのだが、窓からの眺めが問題だ。こちらが6階という高さのため、隣の建物の屋上で生活する人々の生活が丸見えになる。窓には鉄格子がはめられている。防犯対策なのであろうが、眺めはハッピーではない。
<これがアラビア海?>
海をめざして急ぐ。
生まれた初めてアラビア海を見られる。
“アラビアン・シー”。なんとロマンティックな響きであろう。
海は・・・
・・・なんだかイメージと違う。
これでは、海というより大きな港といった風情である。
それもそのはずで、コーチン市街からみえるこの海はVembanad Lake といって汽水湖ということになっている。
<観光する>
KTDC(ケララ州観光開発公団)のボートクルーズ。
ツアーに参加するのは、他の土地からやって来たインド人観光客ばかり。
・チャイニーズ・フィッシング・ネット(“Chinese Fishing Net”)
・マッタンチェリー宮殿(“Mattancherry Palace”または“Dutch Palace”)
・シナゴーグ(“Jewish Synagogue”)
・聖フランシス教会(“St.Francis Church”)
・ボルガッティ島(“Bolgahatty Island”)
1999年5月3日(月)
<トリヴァンドラムへの楽しい旅路>
エンジンがうなり声をあげ、バスは出発した。
ローカル線のバスは、地元の人たちで埋まっている。バスには窓ガラスがなく、座席にはクッションがない。エンジンの振動、道の状態が直にからだに伝わる。その振動は、旅空の気分を高揚させる。これからトリヴァンドラムまで約200キロ南下するのだ。
隣には、5、6歳の子が2人と、その母親が座っている。本当は、彼女らの隣には私ではなく、子どもたちの父親、つまり彼女の旦那さんが座っていたのである。
私がバスに乗り込んだときはすでに座席がふさがっており、私は通路に座っていた。ところが、しばらくすると車掌がやってきて身振りで「あっちへ座りなさい」という。気の毒に、この一家のご主人がかわりに立たされた。
今回の旅の中、何回か乗ることになったローカルバスだが、車掌には、客に席を譲らせる権限があるようだ。特に遠くまで乗る女性は優先させるらしい。
この一家は、1時間半ほど経ってからアレッピーという町で降りた。別れ際あいさつしたところ、奥さんが「サヨナラ!」と、いいのこして立ち去った。
車窓は、といえば、街を抜けてからはもちろん、町中でもヤシが視界から途切れることはなく、南国ムードをかもしだしている。のんびりと明るい風情の中、バスは進む。
バスの旅は楽しい。列車もよいけれども、町や道行く人々の様子を眺めるには、断然バスのほうがいい。列車では早すぎる。
(次号に続く)
ケララ、椰子の木 旅日記 ~アルバム編~
写真(jpgファイル)が散逸してしまいました(>_<)。押入れをひっくり返して探してみます。キャプションだけ残しておきます。 (Page1)
窓からの眺め。コーチン “Seaload Hotel” にて
“Seaload Hotel”は、なかなか立派な造りのホテルだ。だが、安い方の部屋をとったら、窓からの眺めはこれ。手前のトタン屋根の小屋は、人の住まいになっている。 窓には鉄格子がはめられている。
防犯対策なのであろうが、眺めはあまりハッピーではない。
窓につけられた鉄格子の間から撮ってみた。
(Page2)
チャイニーズ・フィッシュング・ネット
日本でいう「四手網(よつであみ)漁法」だが、こちらは規模が大きい。
網を海に沈め、網にとりつけられた丸太で引き上げる。
名前どおり、中国から伝えられたものだという。
フビライ・ハンの時代に伝えられたという説もあるが、実際にはもう少しあとらしい。
マルコ・ポーロによって伝えられたという話もある。
いずれにしても、700年も続いているとは!
(Page3)
Suchindram Temple 中庭
椰子の実を切ってもらう。ジュースを頼むと、穴をあけてストローをさしてくれる。
ケララという地名は「椰子の土地」という意味をもつ言葉からきたという。
(Page4)
ユダヤ人街のシナゴーグにて
ローマ帝国によってパレスチナを追われたユダヤ人が、この南インドの港町に移り住んだ。
以後、彼らの活躍により自治権と統治権が与えられ、ユダヤ文化が根を下ろした。
今でこそユダヤ人街は閑散としているが、美しいシナゴーグから、往時の隆盛がしのばれる。
(Page5)
カーニャクマリ
アラビア海とインド洋とベンガル湾が交わる。左側に見える岩の、やや右前方が、3つの海の合流点。
(Page6)
アレッピーのバックウォータートリップ
ケララ名物、運河の旅。
小さい船なら、船室の屋根に乗ってしまおう。 月明かりが水面にとろける夜にトリップできたら最高だろうな。