体験談

アル中 集中内観に行ってみた(4)

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内観 vs 周りの人々

次のテーマは、周りの人々…親戚、先生、近所の方、友人そのほか…について「していただいたこと、して返したこと、ご迷惑をおかけしたこと」を内観していきます。これまでと同様、数年刻みで調べます。丸一日かかりました。

子どもの頃のことを思い出して、ひとつ思ったのは、昔の大人というのは、自分の子ども以外の子どもに、結構構ってくれていたんだな、ということです。近所のおじさん、おばさんとの関わりとかも思い出すことができました。

余談ですけど、私が今の子どもたちを見ていて一番かわいそうだなと思うのは、ずばり「POSレジ」が世の中を席巻してしまったことです。

私が子どもの頃、レジスターは手打ちで、スーパーのおばちゃんが職人技で打ってました。レジのない商店も一般的で、そういうお店にもよく買い物に行きました。そこで、大人との接触があるんですね。
例えば魚屋さん。行くと「よく来たね」みたいな感じで、一人前100円のまぐろのブツでも「スジの少ないところ選んであげるよ」って言って取ってくれたりとか。タバコ屋さんにタバコを買いに行くと…今だと、これ問題かもしれませんが(笑)…ライターやマッチをおまけにくれたりとか。「何年生になったの?」とか「器量良しだね」とか「お使いできて偉いね」なんて感じで話しかけてくれたり。日々、周りの大人との接触があったので、子どもなりに、自分が社会の中で受け入れられてるっていう実感を得ていたような気がするんですよね。でも、あの、POSレジで「ピッ!」っていうのは…

これ、視座の転換っていうやつ?

子ども時代を調べて、印象的なことがありました。

当時、町内会で「子ども会」というのがありました。今はもう減っていると思いますけれども。

私は小学生の中学年から高学年にかけて、町内会の子ども会の、ドッジボール・チームに入っていました。このことは内観をやる前に母に抱いていた恨みの一つだったのです。母に無理やりやらされた、とても嫌な思い出としか思っていませんでした。

まず、私は、運動神経があんまり良くなくて、ドッジボールなんかやるのが嫌だったんですね。しかもチームでは違う小学校に通う子が圧倒的に多くて、その中に入っていかなくてはならないのも内向的な私としては困惑しました。トロいものですからいじめられた記憶もあります。ドッジボールそのものも嫌いで、本当に最悪だったという記憶だけがありました。

ところが内観では、びっくりするほどありありと、ドッジボール・チームでの思い出が蘇りました。

公園の遊具を仕切る壁に向かってボールを投げて練習するんですけれども、女性の監督が「そうやって腕だけで投げるんじゃなくって、全身をこうやって使って投げるんだ!」と教えてくれたこと。その通りに投げようと頑張ってみたら「そう! さっきと全然違うじゃない」と言ってもらえたこと。試合で、大きい声で応援したりされたりしたこと。ユニフォームを買うために、みんなで廃品回収をして、空き缶や新聞を集めてお金を作ったこと。渡されたユニフォームの布の質感みたいなものまで思い出しました。トラックの荷台に他の子どもたちと一緒に乗せてもらって遠征にいき「みんなマネキンのふりをするように!」とかって…。今ならパトカーが追っかけてきそうですけれども。

決して、嫌な記憶、悲しい記憶ばかりではないんですね。

面倒見てくれた監督をはじめ、大人たちだって、お金なんかもらってなくて、ボランティアだったはずです。お母さんたちも当番で、砂糖入りの麦茶を作って持ってきてくれたりしました。

…そうやって大人の世話を受けたな、とか、自分なりに上達するまでちょっと頑張ってみる大切さとか、人間関係にはある程度辛抱も必要だとか、ドッジボール・チームで多くの貴重なことを学ばせてもらったことに思い至りました。

私は、アルコール依存症の体験談の中で「子どもの頃からずっと、生きることそのものがつまんなくて、面白くなかったから酒を飲んだんだ」と書いています。実際、ずっとそう思ってきました。私としてはそれが真実だったんですね。でも、内観をしてみると、それは間違いだったということに気づきました。ずっとそれに気づかなかったので「きゃー! 恥ずかしー!」と感じました。内観によって視座の転換が起こったといえるのではないかと思います。今後、じわじわじわじわ、あらゆるところに効いてくるんじゃないでしょうかね。

親だけでなく、周りの人たちからも、していただいたことの質量というのは膨大で、自分がして返したことというのはすごく少なく、迷惑をかけたことはすごく多かったという…。内観のすごいところは「事実をひたすら思い出すこと」。その中で自分の思い込み、妄想が破れて記憶がリアルに立ち上がり、「ああ、本当はこうだったのか」と腹に落ちるということですね。

感謝の思いが持てることはもちろん、自己肯定感も上がります。自己肯定感が上がることで、自分が迷惑をかけたことをはじめ、自分にとって都合の悪い事実も、恐れずに見ることができるようになります。

周りの人についての内観をしてみて、良かったなと思ったことがあります。57年間、振り返ってみて最後の、直近の7年を調べたところで、やっと「していただいたこと」「ご迷惑をおかけしたこと」よりも、「して差しあげたこと、して返したこと」の方が3倍くらい多くなっていたことです。57年の人生で、この7年でようやく自分が返す側、して差しあげる側の人間になれつつあるのか、と思えて感慨深いものがありました。ちなみにそれは、父と母のその内観のときもそうでした。もう最後の区切りの方になって、ようやく自分が返したことの方が多くなって、迷惑をかけたことが、事実として挙がってこなくなりました。

フィナーレへ続く!

集中内観、ここから先はまとめとフィナーレに入ります。フィナーレの内容はここであまり詳しく説明しないほうがよいと判断しております。

次回、軽く説明の上、まとめに入ります。

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