
内観──かの有名な3つの質問に呻吟する
まず、有名な3つの質問ですね。関係が深かった人──とくに母親、父親、祖父母、兄弟、配偶者、配偶者の親といった人々に対して、
「していただいたこと」「して返したこと」「迷惑をかけたこと」
の3つについて自分を調べ(内観し)ます。
私の場合は、母親、父親、祖母(母方)、兄弟、夫について行いました。
母親から始め、母に「していただいたこと」「して返したこと」「ご迷惑をおかけしたこと」──この3つについて、数年ごとに区切って思い出していきます。
例えば、生まれてから4歳まで、次が4歳から小学校入学前まで、そのあとは小学校4年生まで、というように、3年から5年ぐらいのタームで刻んでいきます。
このときはメモや筆記は禁止。ひたすら思い出すのみです。
1時間くらいすると面接者の方がやってこられて、思い出したことのうち3つを、それぞれの質問に対して報告します。
説明はせず、端的に「事実だけ」を述べます。
母は私が47歳のときに亡くなったので、母との47年間を振り返りました。
次は父。まだ存命なので現在までの関係を振り返りました。
祖母や兄弟も同様に行いました。兄弟になると振り返る期間は少し長くなり、7年から10年ぐらいずつ。大人になってからは会う頻度も少なかったからです。
夫については、知り合った頃から現在までを数年単位で区切って振り返りました。
これが最初の内観。第1弾といいますか──。
やってみて思ったのは、とくに「親」についてです。
おそらく多くの方が同じことをおっしゃるのではないかと思いますが、圧倒的に「していただいたこと」が多く、「して返したことはほとんどないなあ」と。
私もまさにそうでした。まして私の場合は、アルコール依存症ということで、大変に迷惑をかけたわけです。それを久しぶりに、まざまざと思い出す時間にもなりました。
母との47年間を振り返る
この内観って、すごく特徴的なことがあって、それは「事実を見なくちゃいけない」という点なんですね。
報告では、思い出したことのうち3つだけを、簡潔に伝えます。説明や感想ではなく、事実です。
例えばこうです。
「0歳から3歳まで、母に対する私について、していただいたことを調べました。
していただいたことは、3歳の時に弟の出産のために母が何日かいなくなるので寂しいだろうということで、お人形を買ってくださいました。
そして、おんぶ紐で私のことをおんぶして銭湯に連れて行ってくれました」
0歳や1歳のときのことは思い出せませんが、3歳くらいからの記憶をたどると、ありありと蘇ってきました。
母のおんぶ紐! 今の若いお母さんは、もうあまり使わないかもしれませんね。
ビロード風で、多分、安い化繊のものだったと思います。
いろいろなことを思い出しましたが、印象的だったのは、若い頃の母の姿でした。
母は23歳で出産しているので、私が幼い頃の母はまだ20代。
当時の母を思い浮かべながら、「若いのに子育て大変だったろうな」と思わずにいられませんでした。
幼稚園時代の記憶では、母が出かけるときミニスカートを履いていたことなども思い出しました。
当時の20代女性はみんなそんな感じだったのでしょうね。
「自分の親も、若い頃に訳も分からないまま、毎日追いまくられて子育てをしていた一人の女性だった」ということに思い至りました。
とにかく、具体的に思い出さなければいけないのですが、どうしても想像も入ります。母も若い頃だったからもっと遊びたかっただろうな、とか。子どもがいなければ別の生き方もあっただろうとか。そういうことも思ったりしました。
母からしてもらったことで特に印象的なのは、高校受験の日のこと。
第一志望の東京都内の私立高校を受験した日、東京は記録的な大雪でした。
そんな中、母は一緒に来てくれました。
電車は遅れに遅れ、大幅に遅刻。
それでも、行かないわけにはいきません。スマホもSNSもない時代です。
母は私の後ろを、膝まで雪に埋もれながら「ずぼずぼ」と歩いてついてきてくれました。
ずぼずぼ、ずぼずぼ、雪の中を一緒に歩いた、その光景が鮮やかに蘇りました。
報告ではこう言いました。
「高校受験の日、記録的な大雪の中、母が雪の中を足を埋もれさせながらついてきてくれました」
怒りと笑い──ロールレタリング、大いに役立つ
前に少し書いたとおり、ロールレタリングでは「骨壺割ってやる!」と思うほど怒りをぶつけていました。
でも、内観をしているうちに、思い出が次々と蘇り、気づけば笑ってしまうのです。
あらかじめ、こうなるだろうとは思っていました。
母に対して腹を立てていたことなんて、いざ振り返ればお笑い草になるはず──そう感じていたからです。
確かにロールレタリングで恨みや怒りを吐き出しました。
けれど、同時にどれだけ怒っていようが、私が幼いころにご飯を食べ、生きてこられたのは母のおかげであるという「事実」は消えません。本来は…こう言ってはなんですけど…こんなめんどくさいことしなくたって、わかりそうなものですが。
私は集中内観で、そこのところをはっきりさせたかったんです。
いかに「いただいたもの」が多く、「お返ししたこと」が少ないか。
「ご迷惑をおかけしたこと」がどれだけ多いか。
「そこんとこ、白黒つけさせてもらおうじゃないか!!」(笑)
…と、チャレンジをしたかったのです。そのために1週間の時間を作って、集中内観に臨みました。前もってロールレタリングに励んだのも、今の自分の正直な感情をしっかり見ておくことが内観するために必要なことだと思ったからです。
内観を終えた後は、恨みや怒りが、圧倒的に感謝と良い思い出に置き換わっていました。
内観の核心は「事実を見ること」。
事実を思い出し、見つめるうちに、
「していただいたこと」の膨大さに気づきます。
そして、怒りや恨みといった感情は、無理なく自然に収まっていくのです。
「無理なく自然に」というのが、私にとってはとても大事な点でした。
これまで私は、
「怒りや恨みは手放さなければならない」
「感謝できる人間にならないといけない」
と、自分を変えようと目論んでいたんですね。
でも内観を通じて、そうした「〜ねばならない」という呪縛から解放されました。
怒りや恨みが静かに収まり、しみじみとした感謝の思いが湧き上がってきました。
それでいて、「これまで怒りや恨みを持っていた自分」を責める気持ちもなくなる。
これが、内観の持つ力なんだと思います。
「感謝できる人間にならないといけない!」という呪縛から解放されて、
本当にスッキリしました。
心なんて、意志や根性で変えられるものではありません。
はるばる、千葉県南房総市から安曇野まで行った甲斐がありました。
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この、深く関わりのあった人に対する内観は2日間かかりました。ところが、内観というのはこれだけではないんですね。
続くテーマに取りかかります。
そのお話は、また次回に──。