まずは、最初の一杯から、(今のところの)最後の酒まで、ざっくりと(2)
アルコール中毒者のぴなこです。今回は、まず、 アルコール依存症の当事者としてアルコールを手放すようになるまでのところを、ざっとお話をしたいと思います。
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アルコール依存症まっしぐら
私は、自分が生まれ育った原家族といいますか、実家の生活というのが、子どもの頃から、好きではなくて、 小学校3年生か4年生ぐらいの時には、もうはっきりと「私はできるだけ早く自分の体制を整えて、この家を出ていこう」と決めていました。そのためには、一生懸命勉強をして、ちゃんとした仕事について、自分1人で生活して、大金持ちじゃなくてもいいから、自由に快適に暮らしたいっていう…こんなところで、こんなふうに生活するのは、まっぴらごめんだと思っていましたので。とにかく、その頃は、いわゆる受験勉強ですよね。今の大学全入時代とは違う時代でして、受験戦争が華やかな時代だったこともあり、ものすごく激しく勉強をしました。早く家から抜け出したいという思いが すごく強かったというのと、あともう1つは、勉強に依存していたんですよね。酒に依存するようになるまでは、酒に捕まる前までは、私は、何のことはない、勉強に依存していたということだったんじゃないかなというふうに思います。
本当は、中学生とか高校生とか、あれぐらいの時代の頃というのは そういうんじゃないはずで…。感受性の鋭い時期なので、恋をしたりですとか、…本は好きで結構読んだりもしてましたけれども…映画を見たりとか、音楽を聞いたりとか、 そして、やっぱり自分の将来の姿に遠く思い描いたりとか、友だちと遊んだりとか、そういうことをやっぱりするべき時だったんだろうと思うんですが、ところが、私は受験勉強一辺倒で過ごしてしまいました。もうその辺りからすでに人生につまずいていて…、 先ほどアルコール依存症というのは遺伝的、体質的なものもあるというようにに 申しましたけれども、もちろんそれだけではなく、やはり生き方のまずさですよね。そこに、環境的なものであったりとか、性格的なものであったりとか、 そういうことがいろいろ絡まって…そういうことになったんだろうなと思います。
そんなこんなで、大学の方は、おかげさまで、無事、合格をしました。あの当時は、今と違って、まだ、バブル景気の最後の頃でしたので、学生も、結構簡単に、アルバイトで収入が得られました。それで、自分の活動費、 勉強するための本だったりとか、そういう学業にかかる費用と、遊ぶお金と交通費ですとか、そういうものは自力で調達できました。あとは、奨学金も無利子で借りられましたので、決して 経済的に余裕があったわけではありませんが、かなり自分でもやりくりをして、大学生活を過ごしました。
酒の方は、あっという間に常習的に飲むようになりました。飲み代を、自分で作れるようになりましたし、世間でも、本当はね、お酒って20歳からじゃなきゃいけなかったような気がするんですけど、事実上、高校を卒業すれば飲んでもいいっていうようなことになっておりまして、毎晩、当たり前のようにお酒飲んで寝るようになりまして、美味しいなと思いましたよね、 当時は、よくジンをね、ライムジュースを入れて、ソーダで割って飲んでました。自分が飲むお酒は家に常備しておくのがあたりまえで、外でも、当然、大学生なんで、コンパとか飲み会とか、そういうものが しょっちゅうありまして、で、そういうところでも盛大に飲んでたわけですけど、 盛大に飲んでるうちに、やっぱり時々は失敗をします。私は体が強くて、酒もやっぱり体質的にいっぱい飲めたんですね。顔色ひとつ変えずにがぶがぶ、がぶがぶ、飲めましたので飲んだんですけど、やっぱり大失敗っていうのは、するんですね。それに、外で酔いつぶれちゃって、男の子に担がれてこう帰ってくるとか、 18、9のうら若い女性に、あるまじき姿を…人前で吐いたりとかですね、そういうことをこうする。
極めつけは、最後、卒業コンパっていうのがやっぱりあるじゃないですか。そこで、飲みすぎて倒れて、心配したクラスメイトが救急車呼んでくれたんですよ。救急車で運ばれて、多分ね、緊急解毒みたいのしてもらったんじゃないかと思うんですが、後から聞いたことによると、暴れたと。私が運ばれて、治療を受けるときに暴れて、看護師さんを殴ったとかいうようなことを、言われました。あと、血圧が下がったか、何か意識レベルが下がったかっていうふうに言ってまして、結構危ない状態だったということでした。その時、私は、卒業の半年ぐらい前に、 以前から、折り合いの悪かった親と大喧嘩しまして、家出をしておりましてですね、その時、大学でサークル活動なんか をしていた部室っていうが、あったんです。今の子たち、そういうことするのかわかんないけど、当時は、学校の近くの風呂なしトイレ共同の 4畳半のアパートみたいな部屋を部室として借りていまして、そこに寝泊まりしていました。最終的に、そのサークルで一緒に活動していた女の子の仲間の実家…埼玉の田舎の方、ちょっと具体的に地名はお伝えしないでおきますが、そこに転がり込んで、なんとか卒論を書き上げましてですね、卒業をしました。就職先が決まっておりましたので、就職先 のところと話をつけて、そこの寮、借り上げマンションの寮に入って、そこからとりあえず社会人スタートしました。
私としましてはですね、本当に子供の頃からの、夢、職業人として自立して、自分で自由に、思う存分、仕事をしてみたいというようなことだったんですよね。
ところが、大学生の時はもう完全に、アルコールに捕まっていましたので、自分の未来というもの、自分が本来、どういうことをしていきたいのか…まあ、キャリアプランっていうんですかね…どういう進路を選ぶべきなのかとか、何をしたいのか、何をしたくないのかっていうことを真剣にやっぱりこう考えるべき時だったんですよ。それができる力が私にはなかったんです。
これは、アルコール依存症の非常に悲劇的で残酷な一面だというふうに思います。 特に若いうちに発症してしまうと、自分の未来を真面目に考えることがもうできなくなってしまって、あと何分後かに飲む次の酒のことしか考えられなくなる。そのことしか頭になくなるんですね。もっとまずいことに、 そのことが自覚できないまま何年も過ぎてしまいます。自分は酒を飲むことばっかり考える人間に成り下がったって言うんですかね、そういうことが、わからない。 それに、学生でまだ若かったんで、自分が、かなり変だっていうことが、すごく自覚しにくかったのです。…そういうことで、よく考えずに、とりあえずこう、あんまり就職活動しなくても入れる業界で、あと、まあ、そんな状態であっても、自分はやっぱりちゃんと仕事する人になりたいという思いがあって、専門職に就きたかったので、ソフトウェアの開発会社に入って、システムエンジニアを目指すことにしました。だけど、今から考えると、やはり私にはSEは向いていないように思いますが…でも、当時は考えなしでした。
それでも、入った会社は非常にいい会社でして、当時はまだ従業員700人ぐらいの中堅どころの独立系のソフトウェア会社だったんですけれども、その後どんどん大きくなって、2000人を超え、一部上場企業に なりました。私など、未経験で入ったのに、いろいろなチャンスをいただいたと思うし、 給料もいい感じで出してくれて、福利厚生もしっかりしていましたし、結構大事にしてもらいました。それなのに、自分が毎日二日酔いみたいな状態ですから、仕事どころじゃないんですね。 それでもって、全然仕事ができるようにならなくて。そこで、私は人生でその初めて 平均点以下を取るっていう経験をしまして、自分としても、頑張ってるつもりなのに、どうにもならないし、 そうでなくても、毎日二日酔いいうか、あの時点で、おそらく朝の時点で離脱症状が出てたんじゃないかと思いますね。
二日酔いだか、離脱症状だかわからないんですけれども、心身共々調子の悪い状態が続き、イライラを必死に抑えて過ごす時間が長かったです。それでも、自分がイライラしてとても苦しいんだっていうことは誰にも言えませんでした。なんとなく、私って「なんか面白くて元気な人よね」みたいなキャラをかぶって、どんどんしんどくなっちゃって、ちょっと端折りますけれども、3年半ぐらいしか保たず、やめることにしました。
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