熱い舗道 ~セブ島の路上で~ ―― 1997年 ――

フィリピンのリゾート地、セブ島で2日間過ごした。

1日目、自転車でマクタン島(セブの離島)を一周する。

おおぜいの守衛で固められたリゾートホテルを出るとさすがに緊張した。

ここはフィリピンである。

日本人の買春ツアー、じゃぱゆきさん・・・・・・考えてみれば、治安だけでなく対日感情も悪そうだ。

トタン屋根の掘っ立て小屋、裸足の子どもちたち。

ペダルを踏みしめながらかいま見る島の生活は、いかにも貧しげである。

島の中心街ラプラプの食堂で、ミネラルウォーターを売ってもらった。

鍋の並ぶ店内には入らず、店先の椅子に腰掛ける。

目の前を、小さいかごに詰め込まれたブタが運ばれていく。

向いの路地ではパン屋の前に、毛がほとんど抜けた犬のしたいが捨て置かれている。

鍋のふたを開けたのか、店内から食物の匂いが強く流れてきた。

圧倒的に貧しい者が多いこの国では、「生き物」すべての営みが、リアルに剥き出しに見えてしまう。

きしむ椅子に座って街角のそんな光景を眺めていると、体の奥底から不思議な力が湧いてきた。

それは、自分も生き物の一種であるという唐突な自覚に基づくものであった。

日本の日常では人間の「生き物としての営み」のリアリティは隠蔽されている。

病気や死や、動物的な行動は忌避され覆い隠される。

それは富によって文明が進歩した現れともいえよう。

だが人間は、ただ生まれ、生き、そして死ぬ「生き物」の一面を確かにもっている。

ふいにその事実に思い当たったとき、解放感が高まって貴重なエネルギーが得られたような気がした。

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