飲んだ十五年、飲まなかった十二年 ―― 2013年9月 ――

「あなたはアルコール依存症で、もう治りません。でも同じ病気の方で飲まないで生活できるようになった人もたくさんいますよ」

十二年前、クリニックのケースワーカーが私にそう説明してくれた。けれども何せ、私は1週間でダルマ(サントリーオールド)を少なく見積もっても1ダースほどカラにした連続飲酒から明けて二日目。そう言ってもらっても「ふーん」という感じ。ほんの少し前の診察で、ドクターも「あなたきっとまた飲むでしょう。そう簡単には止められませんから。次飲んだら入院させてあげます」と言われたし。自分でも「止めらんないでしょう。そりゃ飲むに決まっている」と思った。

それでも私の心の中のどこか深いところで何かが応えた。「飲まずにやってみようか、私と同じようなことになっても止められた人がいるんなら、ひょっとしたら私にもできるかもしれない」と。

以来、今日まで一度も飲酒欲求に見舞われていない。十五年間、片時も離れなかった欲求だったのに。特別なインスピレーションがわいたわけでもなく、劇的な回心があったわけでもない。それでも確かに、暗がりの中の小さなロウソクの灯りのような希望が、あの時私のどこかに灯った。その灯りはまだ一人も会ったことのない「飲んでいないアル中さん」が灯してくれた。

それから十二年。干支も一回り。かつてどうであって、今どうなっているか。

私の場合、生まれた瞬間に「アル中決定」だったらしく最初の一杯であっさり酒に捕まり、若くて一番多くを学べる時期を酒の支配下で生きた。学生時代、早々に酒の問題は現れた。毎日必ず飲むようになり、外で倒れるまで飲むことも度々。卒業コンパでは飲みすぎて救急車で病院に運ばれて一晩入院。大学ではいろいろな勉強をして自分の進むべき道を真剣に考えるはずだったのに。学ばなかったわけではない。楽しいこともあったけれども、ちっとも「これでいいんだ」という充足感がなかった。いつもうっすらと失望していた。就職してからも同じだった。仕事のできる自立した女性になる、という子どもの頃からの夢は果敢に取り組んでも毎回潰えるばかり。何がいけないのかは、早いうちから自分で気がついていた。「酒を飲むことが止められない」のが根本的な原因だと。けれども止められない。どうしてもやらなければいけないことが、どうしてもできない。出られる見込みのない暗い牢獄に閉じ込められたようだった。しかし牢獄を出る鍵は自分で持っていた。あの日あの時、まだ見ぬ「飲まなくなったアル中さん」が差しだしてくれた灯火のおかげでその鍵を見つけることができた。

牢獄から出て今日まで自由の身で生きた。朝起きて酒を飲むか飲まないかは自分で決められる。かつては選べなかった。飲むしかなかった。他のことも同じで、どうしたらよいのか今は自分で選ぶことができる。私にとっての最優先事項は酒を飲まないことだが、そのためには「こうしたい」という自分の欲求にしたがうより「飲まないためにはこうしたほうがよい」という判断にしたがったほうが、楽で快適に生きられることに気づいた。毎日「こうしたい」より「こうしたほうがよい」方を選ぶようにしていたら、自分が「こうしたい」と思っていたことが叶うよりもはるかに大きな恵みがもたらされるようになった。飲まないで生きたこの十二年間、「得られっぱなし、頂きっぱなし」だった。失ったものは酒だけ。振り返ってみると酒という牢獄も私自身が必要としていたのだと思う。私にはアルコール依存症という病が必要であり、酒を手放した時からようやく人生が始まった。アルコール依存症は私の体と魂の一部であり、この病とともに生きていく運命を今は喜んで受け入れられる。なぜならこの病とともに生き、回復していく人たちの共同体の一員でいられるからだ。これからも私は「飲まなくなったアル中さん」の一員として、あの日あの時私に差しだされた灯火を「飲んでいるアル中さん」に差しだせるように生きていきたい。それは私の「こうしたい」なのだが、ありがたいことに「飲まないためにはこうしたほうがよい」こととも両立しそうだ。私が自分を活かせる道はそれくらいしかない。私が今日まで本気でやったことはといえば、酒を飲んだことと酒を飲まなかったことだけなのだから。

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