アルコール依存症という不治の病は、私に歩むべき道を与えた。その名を断酒道という。ともに道を歩く仲間はいつも灯をたずさえて時に暗い足元を、時にはるか遠くの進むべき方向を照らしてくれた。
断酒道は一本道ではなく、らせん階段を築いていくことであるように思われる。「気づき」という階段を一段ずつ積んでいく。「気づき」の度合いによって階段の段差はうんと高かったり、ほんのすこしだったりする。このらせん階段は土台を安定させながら積んでいく必要があり、高く積むほど眺めもよくなる。土台を築くのは私自身、「気づき」は与えられて受けとめるもの。仲間から、あるいは人の力を超えた何かから。私のらせん階段は今、どうなっているか。
九年間、自助会の活動と一日断酒を続けることができ、肉体と精神の破滅から免(まぬが)れた。これが、らせん階段の一番大切な土台だった。「新生」するために、精神がアル中的な考えから離れて健康な心になっていくことを目指した。これは「気づき」の階段を一段ずつ積んでいくことだった。自分に「気づき」が与えられるように心を澄ませて仲間の話を聞くこと、常に心を開いて自分の思いや考えにとらわれないでおくこと。らせん階段は一筋縄ではいかなかった。実際のモノとしてのらせん階段とは異なり、上がらない階段やら、下がっていく階段やらになっていることがあって往生した。それもまた「気づき」だった。汗をかきかきらせん階段を築くうちに、いい階段を作るためのキーワードがあることに気付いた。たとえば「正直さ」「受け入れること」「落ち着くこと」「待つこと」「とらわれないこと」など。いずれも飲んでいた時には得ることができなかった心の在り方を表す言葉だった。
飲んでいた頃、私は不正直だった。それは事実にも他者にもきちんと向かい合うことができず、受け入れることもできなかったからだ。なにより酒が自分の生活を、人生をダメにしている事実を受け入れることができなかった。酒を最優先にして生きた挙句、人生において価値があるものをすべて二の次にした。結果、人生は不毛となり、ますます自分が出したその結果も受け入れられず、ついには自分自身を受け入れることができなくなった。そのために心はいつも落ち着きいた状態からはほど遠く、何かにとらわれることを望み、その通りにした。何かにとらわれていることで、自分の不毛さから逃れようとした。もちろん、逃れることはできなかった。思えば飲み始める前から私は不正直だったのだ。ありのままの自分でいることを恐れた。いつも何か目標にしがみついていた。いつも厳しいまなざしで自分も周りもにらみつけていた。アルコール依存症は遺伝的、肉体的な病気であるけれども、あのような生き方をしていたら酒でも飲まなければ生きていけなかっただろうと思う。むしろ酒に捕まって幸いだったのではないか。酒に捕まらなければ、もっとひどい何かにとらわれていた可能性が高い。
「気づき」の多くは痛みを伴う。私の場合、飲んでいた時の自分はすべてにおいてダメだったのであり、さらに飲み始める前の自分もほとんどダメだったのだという身も蓋もない結論に時間をかけて気づいた。いや、その結論を築いた、というべきか。けれどもそれは私の貴重な階段となった。
今、九年間かけて築いたらせん階段で一息ついて振り返ってみる。眺めはどんな具合か。まず、恐れがなくなってきたので眺めて楽しい。階段が上がっていなかったり下がっていたりしても、形が悪かったり、出来がよくなかったとしても「今度、気をつけよう」と笑ってすませられる。正直でいられれば恐れは大きくならない。落ち着いていられる。すぐに結果がでないことについても待つことができる。自分にとって必要なことやしなければならないことは自然に与えられるものだと思うようになり、目標が要らなくなった。だから無理もしなくなった。自分に不要なものは遠ざけたり捨てたりする勇気ももてるようになった。人生が格段によくなった。もちろん完璧ではない。自分の不正直さに出くわすこともあれば、笑ってすますどころか怒り心頭に達することもある。それもまた「気づき」の階段に入れておく。
より具体的な人生の実りをみてみたい。まず、会でいただいた役割を辞退せずに続けることができた。明市民センターでの例会の司会を六年と「房総」の酔いざめ川柳の連載を八年。どちらも先輩諸氏をはじめ会員、家族の皆様のお力添えによるものである。途中、三か月も「武者修行」と称してアメリカへ行ってしまったり、原稿の締め切りに間に合わず編集担当の先輩を困らせたり。これから長い時間をかけて、無償でいただいたものは無償でお返ししなければならない。また酒がとまって最初の三年間は、鬱っぽい状態に陥ることがあったけれども、四年を過ぎたあたりからほとんどそれもなくなった。今は日々「生きていてよかった」と思える。仕事の件だけがすこし残念だ。断酒後半年してから仕事につくことができ、三年を過ぎたところで親元を離れて自活を続けることができたが、いろいろな事情で腰を落ち着けて取り組める職場や職業を得ることができなかった。己の不徳の致すところだろうが、らせん階段のどこかでなんとかなるに違いないと信じている。もうひとつ、今年四月に結婚し人生の伴侶を得た。夫も酒害者で、断酒会とは別の自助会で活動している。私と同じく九年飲まない生活をしており、私たちはそれぞれに断酒道を生きている。それぞれの道を全うすることが私たち二人でよりよく生きていく基本であると思う。
らせん階段は断酒道における私の道の表し方だが、断酒道には人の数だけ形があるに違いない。人によっては砂浜に点々と足跡をつけて行くような道なのかもしれないし、ビルを建てていくような道もあるだろう。雲まで一直線にかけるハシゴのような道をあるかもしれない。いずれにしてもアルコール依存症者は「道」を見出すことができる。そして仲間に示してもらった灯(ともしび)を、自分がまた灯(とも)して仲間に示す。仲間に示すことで自分の灯(ともしび)は、より明るくなる。私はこれからも、この道を歩いていく。晴れの日も、雨の日も。