体験談

私なりに12ステップを説明してみます(1)

アルコール中毒者のぴなこです。今回は、自助グループ、AAの方のプログラムのうち、個人の回復のプログラム、12ステップについてお話したいと思います。「どういうものだかちょっと教えてみてくれない?」というような話があった場合を想定して「こういうことです」とお答えするような感じでしょうか。私個人の12ステップの取り組みについては機会を改めます。あくまで私個人の説明になりますのでその点、ご了承いただけますと幸いです。

AAの12のステップは、AAの基本テキスト「アルコホーリクス・アノニマス(第四版)」の第5章「どうやればうまくいくのか」より引用しています。

ステップ1
私たちはアルコールに対して無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。
We admitted we were powerless over alcohol—that our lives had become unmanageable.

…「無力」はパワーレス(powerless)、「思い通りに生きていけなくなっていた」はアンマネジブル(unmanageable)、つまり、自分の人生をコントロールできなくなった、ということです。このステップ1は、依存症の世界で言われるところの、「底つき」。「自分の人生をコントロールできなくなった」ことが腑に落ちたときから、私たちの飲まないで生きる道が開かれていくと言ってよいでしょう。「無力」がスタート地点にあって、それで「アンマネジブル」、思い通りにできないという…まあ、絶望と言い換えてもいいですよね。私たち、AAメンバーというのは、12のステップ、回復のプログラムを他の人たちに述べ伝えて、助ける…プログラムを手渡す、とも言います…ことによって、自分たちが回復していくという、根本的な思想があるわけなんですけれども、ステップ1だけは渡せないんですね、そこがすごく難しいところです。これは、AAのプログラムをやっていく中で嫌というほど感じました。

「AAのプログラムは『ステップ1』以外はすべて提案」とも言われていて、最初はどういうことなのかよく分からなかったのですが、あとで自分なりの言葉で理解できました。「ああ、ステップ1は私の力で人に与えることはできない。ステップ1は人に渡すことはできない」と。

それはもう、各人に与えられたタイミングというか導きというか運というか、宿業というか、運命というか、そういうものにちょっと関わってくるところがあります。周りの人は、できる限り、ステップ1的なところに、当事者が気づけるように振る舞うというか、当事者が気づけるようにして差し上げること、あとは、祈ることしかできないのだと思います。

先ほど「底つき」というふうに言いましたけれども、私は最近 特に強く思うようになったのは…もちろん「底つき」という言い方を否定するわけではなく。「底つき」で全然OKなんですけれども、「ありのままの自分が見えちゃった」という言い方もできるかな、と思いました。ありのままの自分が見えてしまったとき、それが「底つき」かと。

「底つき」って、ともすると、結構、外的な要因とごっちゃになってとらえられることがあるかもしれないと思うんですね。でも、実際のところ、外的な要因…失業、離婚、自殺未遂、刑務所に入るとかですね…もうそれ以上に悪いことはないだろうと、傍から見えても、本人にとっては別に底つきじゃないんですね。どんなに苦しんでいるように見えたとしても、悲惨なように見えたとしても、底つきと関係ありません。やはり当事者が、本人が、本人の心が自分の状況をどう捉えたかということがいちばん大切なところだと思います。他の人がどう捉えようが、なんと言おうが、本人がそう思ってないとどうしようもありません。…なので、底つきという言葉だけが独り歩きすると、誤解が生じる面もあるんじゃないかなと、ときどき思ったりします。

私の酒が止まるきっかけとなったのは「自分は酒をやめることができないんだ」という自覚…気づきでした。いや、だって、誰が見てもそうでしょ?! …自分でも分からなかったんですか、それ?!…と思われると思うのですが、分からなかったんです。

例えて言うと…目の前に、リンゴが置かれている場面を想像してみていただけるでしょうか。私はそれを長いこと「いやいや、リンゴなんかないですよ」とか「それ、リンゴじゃなくてアップルパイでしょ」とか「リンゴじゃなくて、それはバナナだよね」と言っていた…そういうことだったんですね。

だけど、あるとき「目の前にリンゴがある。アップルパイでもなく、バナナでもなく、紛れもなく、リンゴがある」と気が付いた時の、その、ぐうの音も出ないというか。ありのままが見えたっていうのは、そこにリンゴがあるということを認めざるを得なくなったということで、目にはリンゴの姿が映っているはずなのに、脳というか心というか霊的なものというか、そういうものが、「リンゴはそこにない」とかアップルパイだとかバナナとかに変換してしまっていたわけです。

最近、マイブーム的にステップ1の、私なりの説明っていうのは、このリンゴの例えを使うことが多いです。目の前のリンゴが見えた…ありのままに見えたことがステップ1。

ありのままに見えちゃったんでどうしようもないですね。無力です。どうにもなりません。目の前にあるのはリンゴで、アップルパイでもバナナでもない。自分は酒を飲むことをやめることができない…無力である。これがステップ1の前半で、後半はもう自動的に導き出されると言っていいようなものかと思います。アルコールに対して無力だったことで、もう自分の生活、人生をコントロールできなくなっていた…ことは、もう、バタバタっと認められるはず。

別の視点からみますと、プログラムをやっていく中で「感謝」というのも、一つのキーワードになってくるんですけれども、私はこの、「感謝」というのもステップ1だと思っています。客観的に、いくら「あんた、それ感謝する状況でしょ?」って言われ、しかも自分でも「これ、ありがたいと思わなきゃいけないよなあ」と思っても、感謝というのは、思おうとして思うものでもなく、感じようとして感じるものでもなく、心の奥底から「ありがたい」と、「当たり前のものではなかったんだ」と、腹の底から湧き出るように、理解するものなんだと思うんですね。これも自分の力ではどうにもできない。「感謝」を理解するというのも、すごく、ステップ1的なものだといつも思います。以上が、私なりのステップ1の説明です。

つたない説明で申し訳なかったのですが、AAメンバーはみな、自分なりのステップ1については話ができるはずなので、ぜひ聞いてみてください。一言で表現されることもあれば、長いお話になってしまう場合もあります(笑)。

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