お酒を飲まずに生きるには

アル中本を読もう! 新春特大スペシャル  ~さまようアル中たち~

(今回のアル中本)

「どうしやうもない私 ――わが山頭火伝」 岩川隆著 講談社

「海も暮れきる」 吉村昭著 講談社、講談社文庫

私はいつも旅に出たかった。「どこか遠いところへ行きたい」という願望は、物心ついたときからもっていたように思う。それが、酒を飲みはじめてからとくに強くなった。「どこかへ行きたい」はげしく、せつなく、そんな思いにとりつかれたものだ。
さて、今回は、酒と旅にあけくれた種田山頭火、尾崎放哉の生涯を描いた本をとりあげてみた。ともに自由律俳句の俳人として名を残した。もちろん句も。

うしろすがたのしぐれていくか(山頭火)
分け入つても分け入つても青い山(山頭火)
入れものが無い両手で受ける(放哉)
咳をしても一人(放哉)

誰でもいちどは聞いたことがあるのではないかと思う。2人ともほぼ同じ時代に、俳誌「層雲」を中心に活躍した。山頭火が山口県防府市、放哉が鳥取市出身、ともにアル中、酒乱で、周囲に大迷惑をかけながらも俳句仲間たちに支えられて、句を残すことができた。

「どうしやうもない私 ――わが山頭火伝」
力作だ。著者の岩本氏はノンフィクションライターである。本書は、数多くの文献から、まるで「見ていたように」山頭火の一生を浮き彫りにしている。読後、つくづく感じたのは、「まったく、アル中の一生そのものだよなあ」ということだ。著者は、アルコール依存症という、病気そのものについては触れていない。おそらくこの病気については調べていなかったのではないだろうか。にもかかわらず、アル中特有の酒の飲み方、精神状態などを正確に描いている。プロの文筆家というのはやはりすごい。とはいえ、もしこの作品を、アル中は肉体的、精神的な、そして全人格をとりこんでしまう病気である、という視点から書いたらどうなったか。ぜひそのバージョンも読んでみたい、などと、アル中の当事者である私は、つい考えてしまう。

「海も暮れきる」
こちらは、尾崎放哉の後半生を描いた小説。まず、タイトルがいい。放哉は海が好きだったようで、海の句をたくさん残している。そういえば山頭火のほうは山や野の句が多い。放哉は、正業についたためしのない山頭火とは異なり、東京帝大法学部を卒業した後、勤め人としてエリートコースを歩くこと十年弱。でも、酒のせいでポシャる。そして、結核。この小説で描かれている放哉は、大酒をかっくらうというよりは、典型的な酒乱型の飲み方をしている。お金もなければ、体もぼろぼろで、そんなに飲めたものではなかったのだろう。小説の後半では酒の苦しみ、というよりは病苦の描写に、目を覆いたくなる。彼の生き方のなかで瞠目すべきは、美人でしっかりものの奥さんには甘えまいと、必死にこらえた点である。すばらしい句が残せたのは、身内に甘えず、友人、隣人の善意にすがる、厳しく寂しい道を選んだからだと思う。こちらは小説なので、どうしても感情移入が強くなる。読後感が少々せつないので、気がふさいでいるときは、「積ん読」したほうがいいかも。

さまようアル中たち

明治生まれの彼らにとって、アル中は結核同様の死病であるということは知るよしもなかった。彼らがひとつところに定住できず、さすらい続けたのは、「心の平安を求めて」のことだったのではないかと思う。だが、それはかなわぬ願いである。アル中は、この地上どこへいっても酒を手放さないかぎりどうしようもない。死して大自然の懐に飛び込むしかない。病めるアル中を受け入れてくれる場所はそこだけである。

とはいえ、二人とも路上で行き倒れることはなかった。山頭火は愛媛県松山市の一草庵、放哉は小豆島の南郷庵という小さな庵で客死した。それは、彼らが死ぬまで句作を続けたからである。友人たちはそんな彼らを、見捨てることができなかった。

今回、山頭火、放哉に関する本を読んで、二人の残した句をたくさん読むことができた。やはり、すばらしいと思う。自由律俳句とは、まさしく彼らのためにあったようなものだ。アル中には長い文は向かない。つきつめて一句にまとめるという表現方法がもっとも適していたのではないか。というよりも、他の方法はとれなかったのではないだろうか。

二十一世紀のアル中として

ところで、山頭火も放哉も、ひたすら旅に明け暮れたかのようなイメージがあるが、実はそうでもない。山頭火は全国を廻ったとはいえ、旅の中心は西日本である。放哉も仕事で朝鮮半島に渡ったほかは、西日本が中心で、旅の範囲は山頭火よりも狭い。彼らは友人の援助をあてにしていたので、そう遠くにはいけなかったのである。放哉には持病もあった。なにせ、アル中で、定住ができないから「ここではないどこかへ」行きたくて、旅にでていたのだろうと思う。
さて、私も旅にでたかった。飲んでいたころは、やはり「ここではないどこかへ」行きたかったのではなかったか。いろいろなところへ旅したが、心のどこかで、どこへ行っても自分からは逃げられないということは、わかっていたような気がする。飲まない生き方を選んだ今、どう変わったか。あまり変わらない。やはり、「ここではないどこか」へ行きたいのである。唯ひとつ、変わったことは「ここ」も愛している、ということだ。「ここ」とは、今、この瞬間を生きている自分自身である。自分自身が嫌だ、逃げたいという、あの、焼けつくような衝動がなくなった。
二十一世紀のアル中は、おのれにとりついた死病から回復する道を選ぶことができる。私は回復への道を歩きたい。それこそ偉大な旅だろう。そして、この世界のなかで、自分が自分らしく有意義な生き方ができる道を探したい。一日一日を大切に生きれば必ず見つかるだろうと信じている。
それにしても「漂泊の思ひやまず」「そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。」(by松尾芭蕉)ということは、よくある。
旅にでたいなあ。

(二〇〇六年 新春に寄せて)

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