新・「アル中本」を読もう! 失踪日記 アル中病棟(失踪日記2)<第1回> (吾妻ひでお)

タイトル 失踪日記 アル中病棟(失踪日記2)<第1回>
著者 吾妻ひでお
出版社 イースト・プレス

【これは、傑作!】
漫画家、吾妻ひでお氏がアルコール依存症の当事者として自身の経験を描いた2冊。
『失踪日記』が2005年、『アル中病棟(失踪日記2)』が2013年発行で、両方とも早々に買って読み、いろいろと思うところがあった。すぐに「アル中本を読もう!」のコーナーで感想を書こうと思ったのに、そのまま10年経過…
書かずにいたひとつめの理由は、長くなりそうで、ぴしっとまとめるのが難しいから、ということ。
もうひとつの理由は、吾妻氏の自助グループに対する評価があまり高くないように見えたから。そこのところで微小ではあったものの反抗心がめばえてしまい、批判的な書き方になってしまうからやめておこうと思ったのだ。

『アル中病棟(失踪日記2』を最初に読んでから10年後の今。読み返して、まず「文句なしの傑作」であると思った。日本のアル中病棟に入院した当事者が克明にそこで体験したことを描いた漫画はおそらく他にないし、漫画に限らず、小説、映画その他創作の世界の中でもないと思われる。至るところにギャグを散りばめながらも病状といい人間模様といい正確に的確に描かれていて「ある、ある!」「いた、いた!」「そう、そう!」と膝を打ってしまう。

また、巻末のとり・みき氏との対談を読むと、絵を描くことの大変さの一端を想像でき、あらためてこの作品の価値の高さというものを感じた。私は普段漫画を読まないので、絵や漫画を描くというのがどういうことなのか、想像できなかったのである。

この2作品は世の中から忘れ去られずに読みつがれるべきだと確信している今、10年前の私が、なぜこの作品の価値をそんなに高いものと思わなかったのかが不思議だ。
どんなに長くなっても、この作品を読んで思ったことを書いてみたいと思う。

今回は私自身のアル中体験を踏まえて、吾妻氏の2作品を読んで浮かんだ思いを大雑把に書いてみる。

【アル中と自由と自我】

私はアルコールがとまって間もない頃、東京の荒川区や台東区で開かれる自助グループのミーティング会場に通っていた。山谷(さんや)に近いという場所柄、ドヤ出身のメンバー仲間も多い。その会は1970年代半ばアル中の神父が、彼の母国アメリカ合衆国で行われていた自助グループ(self-help group)を持ち帰って広めたもの。神父はドヤに住む多くのアル中を助け、日本の自助グループの歴史が始まった。
当時はその神父と直接交流があったメンバーが生き残っており、その中のひとりが、ある日話してくれたのである。

「(神父に)言われたんだよね。スラム(ドヤ)での暮らしが長い人は回復に時間がかかる、ってね」

私も男性であれば自分自身がドヤ暮らしをした可能性はとても高いと思っていたので、その話は印象に残り、いつまでも忘れなかった。
日本に自助グループを伝えてくれたその神父は、かつて日本に赴任中にアル中を悪化させ、本国に呼び戻された。そして自身が自助グループで回復すると「日本に戻って、アル中の手助けをしよう。日本で最も悲惨な境遇にあるアル中が多い場所に行こう」と決意し、実行した。山谷に身をおいて多くのアル中を目にしてきた神父の実感である「ドヤ出身の者は回復に時間がかかる」という言葉。

なぜか?

アル中からの回復には「自我の縮小」が重要な課題となる。ここでいう自我とは、簡単にいえば自分勝手、ワガママのことだ。日雇い仕事で1日の宿賃と食事代と飲み代を稼ぐ生活は、さまざまな厳しさの中にも、気ままさと気楽さがあり、自我が強いタイプの人はそれが増長されてしまうのではないだろうか。もちろんそうならない人もたくさんいるだろうが。

吾妻氏はアーティストだ。アーティストが創作活動をするには、自我の膨張が必要なのではないだろうか。創作活動をしない人と比べてかなり特殊なレベルで空想、想像している時間も長いはず。そのための心のエネルギーを保ち、かきたてることもあるだろう。必然的にアーティストには思いっきり自我を膨張させて、心を自由にはばたかせる必要がでてくる。自由と自分勝手、ワガママとは等号で結べない。が、ドカンと自我を膨張させて創作活動をするのと、勝手気ままを抑えながら、イチ社会人・イチ家庭人・イチ個人として成熟していく、ということと折り合いをつけるのは結構難度が高いような気がする。

ちなみに、私が自助グループで見たアル中仲間の中にはアーティスティックな素養を持った人が多かった。実際にプロの漫画家やイラストレーター、音楽家もいたし「え?この人が?」と思うような人が趣味の域とはいえ、そこそこ嗜んでいたりする。この辺はまた別の機会に書けたらと思う。

アル中が酒を飲まずに過ごすためには、とにかく1度、自我を縮小しなければならない。それがただのヤンチャなワガママであろうが政治・芸術的創造性や宗教的信念が含まれていようが、内容はどうでもよい。回復は自我をへこまさなければはじまらないのである。へこました後、回復に向かいながら、少しずつ取り戻していけばよい。というか、自然に戻ってくる。
いったん「飲んでいたときの自分」の自我がへこめば、新しく、自由度の高い「もっと生きやすい自分」として生きていける。アル中は自我の縮小を経て新しい自由を手に入れるのだ。
新しい酒は新しい革袋に盛れ、というとおり。…中身は飲めないが。

続いて吾妻氏の描いた自助グループについて書きますが、長くなりましたので次回にします。
(記:2023年2月6日)

失踪日記 アル中病棟(失踪日記2)<第2回>

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